聖書のお話 & コラム

「憐れみ」と「排除」          牧師 西岡義行
 
 憐れみは、排除と紙一重です。私たちは、憐れむといって、無意識に人を排除します。そもそも憐れみとは何を意味しているのでしょうか。

◇排除の論理への対決

 福音書には多くの癒しの奇跡が記されています。特にマタイ伝の八章以下では奇跡が続きます。ところが、その中に、マタイがイエスの弟子となる記事が記されています。よく考えてみれば、当時「裏切り者」とされ、豪邸を構え、金持ちである取税人マタイが弟子に選ばれたこと自体、奇跡と見て不思議ではありません。当のマタイ自身、「こんな罪深い自分が主の弟子に選ばれたとは、何ということだ」と思ったことでしょう。

 マタイの家では、罪人と言われた当時の裏社会の人々が集まっていました。その場で、イエスが食を共にしていたのです。「あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ」(マタイ一一・一九)と評されたのも無理からぬことでした。このイエスの行動に対して、パリサイ人らは、直接イエスにではなく、弟子たちに向けて、彼らの師であるイエスを批判しました。

 主は彼らの批判に対して、旧約聖書のホセア書を引用して、「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」(マタイ八・一三)と言われました。当時、病に苦しむ人があると、「先祖か誰かの罪のたたりである」とか「神の呪いを受けている」などとして、隔離され、放置されていたと言われます。詩篇には、「あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、わたしを彼らの忌みきらう者とされました。わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。…わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。」(詩篇八八・八、一五)とあります。

 こうした弱者を排除してしまう恐ろしい社会的実体が、旧約の時代のみならず、イエスの時代にもありました。主イエスは、「ユダヤ社会の最底辺に、人々から差別され、生きながら屍骸のように拒否された人々」(山形孝夫『治療神イエスの誕生』一〇頁)に自ら近づき、癒され、友となられたのです。

 当時の宗教指導者たちは、神殿祭儀を重視し律法を守る、立派な人々でした。ところが、病に苦しむ人々、障がいを抱えている人々や、罪人と言われる人々を排除していたのです。構造的悪として社会全体で排除の論理が働いており、安定した社会の中にいる人々は、それに、気付くことも、意識することもなく、生活が営まれていました。

 こうしたことは、良きサマリヤ人の譬え話に表現されています。律法学者や祭司などは、日々の祭儀的な営みに忙しくしていたので、道端で強盗にあって苦しむ者があっても、見て見ぬふりをして「向こう側を」通って仕事に勤しみます。主のたとえ話は、当時の実体を明らかにしています。宗教指導者らは、社会の問題が起きたとしても、それに向き合うことなく、むしろそれに目を背けて自分にとって安全な方に歩みを進めていったのです。さらに驚くのは、異邦人のサマリヤ人が、苦悩するユダヤ人を見たとき、憐れみに満ちた行動に出ているという点です(ルカ十・二五~五七)。

 マタイ伝では、そのたとえは記載されていません。しかし、主イエスの行動そのものに、同様のメッセージが込められています。主自らが、当時の社会が排除し、目を向けることをしなかった人々を大切にしました。重い皮膚病に苦しむ人や墓場に追いやられた手におえない乱暴者に近づかれたのです。こうした行動自体、当時のユダヤ社会に対する強い批判が込められていました。「あわれみの心をもつように」という主イエスの言葉は、当時の社会にも、今を生きる私たちにも強いメッセージとして迫ってきます。それは、言葉だけでなく、行動を伴っていたからです。

◇排除する憐みではなく・・・

 私たちが「誰かを憐れむ」という時、相手をさらに苦悩に追いやることがあります。相手を助けてあげようとする中で、気が付かないうちに、上から目線で接してしまうのです。自分が人から憐れまれることは受け入れがたいことであるにも関わらず。

 聖書が伝える「憐れみ」は、そのようなものとは、性質を異にしています。二つのヘブル語が背後にあります。一つは「ヘセド」で、相手が不真実であっても変わることのない、真実を尽くす行動を伴う愛です。もう一つは、「ハラミーム」で、母親の「胎」を意味する言葉からなっています。自分のお腹を痛めた母親が、子どもをいとおしむことが背後にあります。喜びも、悲しみも、痛みも共にすることから始まるものです。

 しかし、私は人の痛みが分かりませんでした。ある方の自立支援にかかわり、どうしたら助けになるだろうかと、考えていました。ある時、二人だけで語り合うことがありました。彼はぽつんとこう言いました。「実は…、助けていただくことが一番つらいです」。その時、私は言葉を失いました。助けることは、こちら側は良くても、助けられる側にとっては、それが何よりも辛い事だったのです。そのことに気付かず、「こんなに犠牲(いけにえ)を払っているのに」とどこかで思っていたのです。全く分からなくなってしまいました。そんな中、次の文に出会いました。

 愛するとは、何かをしてあげることではありません。なぜなら、一心に何かをしてあげても相手を踏みつけることがありますし、こちらの行為を見せつけることによって、あなたには価値がなく、役に立たない人間だと感じさせてしまうことがあるからです。…愛するとは、その人の存在を喜ぶことです。その人の隠れた価値や美しさを、気付かせてあげることです。(ジョン・バニエ『小さき者からの光』(二九頁)

 少しだけ光が見えた気がしました。愛するとは、その人の存在を喜ぶことなのだ、と。
 相手の気持ちが見えていないこんな自分でも、主がまず喜んで下さっていることを知り、少し楽になりました。自分こそ、主のあわれみを必要とする者なのだと気づかせていただきました。



「どんな境遇にあっても」
 パウロは、「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。」(ピリピ四・一一)と言いました。これほどのことが言えるのは、驚きです。どうして、そこまでのことが言えたのでしょうか。
◇「足ること」
 この、「足ること」(アウタルケース)という言葉の背後には、紀元前三百年ごろからゼノンによって広げられたストア派の考え方があるとされて います。その教えの中心の一つが、「自足の倫理」でした。意のままになる領域とならない領域とを判別することがまず大切なこととされます。自分ではどうにもならない天候、季節、運命、天災などについては、受け入れる心が重要とされます。そして、それを受け入れるために意のままになりうる自分の内的世界を制御することが強調される考え方です。周りがどんなに混乱しようとも、自ら足りるという安定した内的世界を確立することが成熟した大人であるという教えです。
 実際、これが出来ればどんなに素晴らしいかと思います。先日の家庭集会では、東京大空襲の中の惨禍の中を逃げ回った体験、その後の食料や生活物資が極度に不足する苦しい中で、足ることを学ばざるを得ない、壮絶な現実を生 きてこられた方々の話を伺いました。それほどの経験をした方と、豊かな時代の中で、育った方との感覚の違いは、明らかで、聞けば聞くほど、その違いに驚かされます。
 どのような環境で育ったかは、「足ることを」学ぶことと深く関係しているように思われます。そして「自足の倫理」も、戦後の厳しい現実を生き延びてこられた方々と、物が溢れて様々なことを我慢する必要のない時代に育った者との間には、調整が困難と思われるほどのずれを、時として目の当たりにします。どんな境遇にあっても、周りに左右されない自己の内的世界の確立を巡って、私たちは分かり合えない壁を感じることも少なくありません。パウロのいう「足る」ことは、自足の倫理とは異なるものでした。それは、いったい何 だったのでしょうか。
◇あらゆる境遇に処する秘訣
 パウロのことばで驚かされるのは、一二節の「飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。」です。この秘訣を私たちも何とか知りたいものです。この「秘訣」と訳されていることばは、当時の密儀宗教で「入信」を意味する言葉でした。「秘儀を通して救いの境地に入る」ことで、どんな境遇にあっても、この地上の様々な現実から逃避して、神秘的な世界に逃避し、超自然的神との合一により、あらゆるものから解放されることを求める神秘宗教は、ピリピの人々に大きな影響を与えていたものでした。それは魅力がありますが、パウロはその言葉を用 いつつも、実は全く異なる道を示しています。
 それは、そうした当時のストア派の「自足の倫理」や、密儀宗教の「秘儀」という用語を用いつつも全く異なる世界を提示しているのです。それは、「足ることを学んだ」の意味に隠されています。それはいったい何だったのでしょうか。
◇ある出来事を境に
 この箇所を詳しく解説した注解者らによると、「学んだ」は不定過去です。それは、一回の出来事をさしてており、それがその後の生き方に決定的に変えてしまものをさしているのです。そのような一回的な出来事でそんな「足ること」を得ることなどできるのでしょうか。このテキストを読んだ人は、驚いたに違いありません。
 一回的出来事で、その後のあり 方が変わってしまうことを理解することは実は可能です。「プロポーズ」という出来事を考えてみてください。それは一回限りであっても、その後の二人の関係を決定付けます。「はい」と答えたなら、その出来事によって、二人の関係は全く変わってしまいます。実は、イエスとの関係においても、主を信じる、という信仰告白は、主からのプロポーズに答えることを意味し、両者の関係は決定的に変わるのです。信仰告白とは、それほどの変化をもたらす一回的な経験なのです。
 「足ることを学ぶ」とはどういうことでしょう。それは、内的自己の確立への鍛錬によるのでも、神秘的な境地の経験でもなく、主イエスとの関係が築かれることによって与えられる恵みなのです。パウロは、イエスと深い関係が 築かれ、この方と共に歩むのであれば、どんな境遇にあっても足ることを知るのです。だから、どんな境遇でもそこで感謝をもって歩むことが可能となるのです。
 小さな子は、暗い教会堂へは、怖くて行けないと訴えます。しかし、同じところも、知っている大人と一緒なら行けます。暗いところも、楽しいところになってしまうのです。どんな状況にあっても、信頼できる誰かと一緒であれば、そして、その方との契約があれば、「足ること」は可能なのです。それが、主との関係を築くということの中身です。主の臨在の中で、私たちはどんな境遇でも「足ること」が可能なのです。
 これは、何という祝福でしょう。そして何という福音でしょう!


「十四色の愛」                牧師 西岡義行
 結婚式で最も読まれる聖書の箇所は、おそらくコリント第一の手紙十三章でしょう。愛の章として有名なこの箇所に耳を傾けてみましょう。
 愛の章の最初の三節は、「もし愛がなければ」について語られています。どんなに素晴らしい言葉も、信仰すらも、さらには慈善行為も、愛がなければ無に等しいと伝えています。驚くことに、聖書は、信仰よりも愛が大切なのだと明確に主張しているのです。実際に、最後まで残るものは、信仰と希望と愛であると伝えています。しかもそれらの中で、最も大いなるものが「愛」なのだと、一三節は述べています。
 英語で「生きる」は、LIVEですが、それは、愛するLOVEと語源を一つにすると言われます。生きること は愛すること抜きには考えられないということを物語っています。愛されない中では、人は生きていることを実感できないでしょうし、愛する誰かを失うことは自分自身をえぐられることでもあるのです。
 この愛がなければ、「無に等しい」とまで聖書は言い切ります。人間の空しさの根源には、この「愛の欠如」があるのでしょう。愛を失った信仰は、無に等しい(二節)とまでいう、その愛とは何なのでしょうか。四節以下をみると愛の内容が見事に描かれています。それは、愛をプリズムにかけたように私たちに見せてくれます。光をプリズムにかけると七色に分かれますが、愛を人間の生活というプリズムにかけると十四色の綺麗な光に分かれると言えます。その一つ一つは実に見事なものです。 愛は・・・・
  ①寛容であり、   
  ②愛は情け深い。
  ③ねたむことをしない。
  ④愛は高ぶらない、
  ⑤誇らない、
  ⑥不作法をしない、
  ⑦自分の利益を求めない、
  ⑧いらだたない、
  ⑨恨みをいだかない。
  ⑩不義を喜ばないで真理を喜ぶ、そして・・・
  ⑪すべてを忍び 
  ⑫すべてを信じ
  ⑬すべてを望み
  ⑭すべてを耐える
 最初の二つは、愛の内的実質をのべています。「寛容」のギリシャ語は、マクロスメイです。このマクロは時間が長いということです。時間をかけることがここで暗示されています。ですから、ある解説者は、「すぐに判断しないこと」、「決め付けないこと」 とのべていました。私たちは、見かけや、服装などで、人を判断したりします。私たちは、最初の色で、つまづいてしまうかもしれません。二番目の情け深いとは、「赦しと憐れみの心をもって人と接すること」です。
 三番目から十番目までは、「・・・しない」が続きます。実質を具体的な生活の中で見ていくと、それは、八つの事々を「しない」ということなのです。ところが、実際はどうでしょうか。私たちは「ねたみ、高ぶり、誇ります。無作法で、自分の利益を求め、いらだち、人を恨み、真理を喜ばず不義を喜ぶ」ということが現実ではないでしょうか。ある方は、五節以下の十四色に自分の名前を入れて読むことを提案していますが、そのように読み続けることが出来るでしょうか? 私は 、途中で読めなくなってしまいました。
 
 きっと私たちには本当の意味での愛が内側にあるとは言えないのでしょう。それにも関わらず、自分でこれらのリストを懸命に頑張ろうとすることがあります。努力は尊い事ですが、七色をクレパスに塗ったとしても、そこから光が出ては来ないように、十四色を自分の力で塗ろうとしても、そこから愛が出てくるわけではありません。愛があるからこそ、こうした色がでてくるのです。ですから、愛がなければこうした一つひとつの事々は私たちの人生ににじみ出てこないのです。
 ヨハネというイエスの弟子は、手紙の中で、「愛は神から出たものなのである」(1ヨハネ四・七)と述べています。私たちは器として、それを受け取ること、プリズムとし てそれを受け取ることが大切なのです。受けなければ、出てこないという弱さを認めることから始めませんか。私たちにとって大切なものは、自分で作り出していません。命も、感謝も、人生も、愛もです。私たちは、生きているのではなく、生かされているのです。愛することからではなく、愛を受けることから始まるのです。
 愛をもって人々に仕えたマザーテレサは、毎朝神に祈りをささげて一日を始められました。まして私たちは、まず自分には愛がないことを認め、神に祈って、愛の源なる方からの愛を受けて生きる時、そこから何かが始まるのだと信じています。
 愛の中を生かされるために、まず私たちが見えない大いなる方からどれだけの愛を受けてきたかを、数えてみる必要がある のではないでしょうか。信仰は、きっと愛を受けるために必要な大切な管なのでしょう。信仰によって上を見上げる時、愛が注がれていることに目が開かれ、希望が生まれてくるのではないでしょうか。


「祝福を受け継ぐ」               牧師  西岡義行

 ある名著の表紙には、なぜか気球の写真が掲載されています。英国で二つの団体から賞を受けた著書で、日本語にも翻訳されて出版されています。それは、『〈聖〉をめざす旅―シャロームを生きる神の民』(Journey to the Holiness 棚瀬多喜雄訳、東京ミッション研究所、一九九九年)です。

◇気球の不思議
 なぜ、気球の写真が表紙にあるのでしょうか。私は、一度も乗ったことはありませんが、気球は地上を静かに離れ、ゆっくりと空に浮かびます。上昇すると、少しずつ視野が広がり、今まで地上からは見えてこなかったことが、見えてきます。高度を自由に変えることができるので、広い視野からも、また地上に接近して詳しく見ることも可能です。この視野を変えつつ、さながら気球に乗って聖書の世界を旅するのが、『聖をめざす旅』の特徴です。
 古代史を飾る世界遺産のピラミッドの上から聖書の世界を見渡しつつ、静かに高度を下げて、ピラミッドのふもとで汗して働く奴隷たちの苦悩に迫ります。さ ながら映画を見ているように、あのモーセによる殺人事件の現場にも近づきます。また、命がけでミデアンに逃れるその場面が広がってきます。その本は聖書のテキストに対しても、全体のコンテキストの中で捉えつつ、細かな描写にも忠実に迫り、深い洞察に満ちたメッセージを私たちに届けてくれます。

◇視点を変える
 先日、我が家でとっている新聞に、立花隆氏が『宇宙からの帰還』を出版した頃の思い出が書かれていました。全く違った世界から自分の世界を見直す不思議な体験は、宇宙飛行士たちの人生に多大な影響を与えたのです。このことを知った立花氏は、宇宙飛行士とのインタビューに挑んでいきます。宇宙体験者が見たものは、単に地球だけではありませんでした。人間 を超えた大いなる存在であったり、人間の小ささや、同時にその貴さなど、普段は見ることのできない大切なことを発見していったのです。こうした宇宙での体験は、彼らの人生を変えてしまうほどの力があったことが、その本では語られています。気球による旅にしても、近代技術が結集された宇宙ロケットによる旅にしても、視点を変えることで、見えなかったことが見えてくる点では、どこか共通しているように思われます。
 宇宙まではいけないとしても、視界が変わる世界へと行ってみたいと思うことがあります。昨年の秋、紅葉ツアーで都幾川に行きましたが、時期が早かったことから、紅葉はまだまだという状況でした。そこで、その背後にあった堂平天文台まで自動車で登りました。不思議 とその日は澄んだ秋晴れで、関東平野が一望できたのです。歓声があがり、共に写真を撮り、しばらくその美しさに見とれていました。また、すぐ近くに、燃えるような紅葉が目に飛び込んできたのです。秋の風景を満喫し、忘れることのできない思い出となりました。

◇祝福が見えてくる
 私たちはとかく、やらなくてはならないことに追われ、知らないうちに、あれもこれもと、なすべきことに囲まれて、自分を見失うことがあるかもしれません。時には日常の喧騒を離れて、全く別の世界に身を置かなくては、自分がどこから来て、どこに行こうとしているのかが分からなくなることもあるでしょう。だからこそ、日常の喧騒から離れることが必要なのではないでしょうか。

  かえって、祝福をもって報いなさい。
  あなたがたが召されたのは
  祝福を受け継ぐためなのである。
           (ペテロ第一の手紙三・九)

 今年、このみ言葉が与えられました。私たちは、時として自分にどれほどの祝福が与えられているのか、それすら見失うことがあります。どこから導かれ、どこに遣わされているのかを、まったく別の角度から見直すとき、今まで見えてこなかった大切な何かが見えてくるのではないでしょうか。だからこそ、日常の生活を離れ、特別な時間、特別なところへ、そして何より特別な方と会う時を持ちたいものです。そして、その特別な方の目で自分を見つめ、自分の現実を見つめ直したいものです。きっと何かが見え てくるに違いありません。


「祝福を受け継ぐ」              牧師 西岡義行

 のぞみ教会は、昨年「わたしは新しいことをなす。…わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」(イザヤ四三・一九)のみ言葉に押し出されて歩んでまいりました。そして、見えるところ見えないところで新しいことが起き始め、感謝いたしております。二〇一六年を迎え、新たな御言葉へと導かれております。それは、さばくに川を流れさせるために必要なみ言葉です。

悪をもって悪に報いず、

悪口をもって悪口に報いず、

かえって、祝福をもって報いなさい。

あなたがたが召されたのは

祝福を受け継ぐためなのである。
          (ペテロ第一の手紙三・九) 

 

◇受け継ぐことのむずかしさ

日本の伝統工芸には、千年以上の歴史を持つものもありますが、需要が減り、売上も減り、産業が縮小し、衰退の一途をたどる中で、それに輪をかけて深刻なのが、「後継者不足」なのだと言われます。現役の職人さんも、今の産業を維持することで精いっぱいとなり、後継者を育てる余裕がなく、この悪循環が問題を深刻化しているのだと聞きます。
立教大学の山口教授によると、後継者問題は、中小企業において特に深刻化しているのだそうです。実際に町工場などの中小企業は、日本が世界に誇る技術を磨いてきており、廃業率も世界との比較においては、低いのですが、後継者がいないために技術継承の危機にもつながりかねません。

「後継ぎは 都会で暮らし 過疎の村」

(白峯の川柳作品集、二〇〇九年六月佳作入選作品)

「後継ぎが 出来て元気な コンバイン」
(長谷川邦男作 NHK札幌放送局・川柳サロンHPより)

これらの川柳は、今の日本の農家の一端を表わしています。それは、この寺井地域の方々にとっても同様でした。実際は、過疎の村ではなく、コンバインが元気な地域ではありますが、兼業農家が多いようで、みなさん忙しく、週末や祝日に農作業をされています。先日、「おやじの会」に出席した時、こんな話を聞きました。

「昔はこの地域の祭りも盛んだったが、祭りを支える人が少なくなって、高齢化してもうできなくなってしまい、寂しいもんだよ。」

この地域でも、受け継ぐということは、一つの課題です。私たちの教会は、この一年、このことに目を向けたいと願っています。とはいえ、聖書では何を受け継ぐのかについて、独自の内容を持っています。それは、「祝福を受け継ぐ」ということです。

◇魅力が伝わる

中小企業の経営者二千人もの方々の声を聞いた牟田氏は、『後継者という生き方』(プレジデント社)という著書の中で、後継者問題がいかに深刻であるかを分析しています。その中で、特に自分の子どもに継いで欲しいと思う経営者の思いが、跡継ぎとなる人に届かない現実の背後には、コミュニケーション不足があるとしています。実際、子どもが中小企業を継がない理由のトップは、「その仕事に魅力を感じない」ということだったとのことです。

後継者の問題は、「魅力の伝達」と深くかかわっているようです。本当に魅力があるかは、そこに価値があることが本人だけでなく、周りにも伝わることが必要なのでしょう。そしてそれは何より、本人がそこに真の魅力を感じていることが不可欠です。祝福を受け継ぐということを考える時、まず、主から受ける祝福がどれほど素晴らしいかが、実に大切なことなのです。ですから、まず祝福を受けることから始めたいと願っています。

この一年、祝福を受け継ぐためにも、まず私たちが祝福を受けることをはばかることなく求めようではありませんか。もちろん、それは、自分だけが祝福されて、他の人にはそれが行かないようにする、と言うことではありません。受け継ぐためです。私たちは器です。それは、あふれることによって、周りの方々にも祝福が及ぶ。祝福が受け継がれていくのです。

◇聖書における継承・・・「何を受け継ぐのか?」

私たちは、受けたことを継いでいくのですから、何を受けたかは大切です。インデアンの詩に次のようなものがあります。

批判ばかり受けて育った子は

 非難ばかりします

敵意に満ちた中で育った子は

 誰とでも戦います

ひやかしを受けて育った子は

 はにかみやになります

ねたみを受けて育った子は

 いつも悪いことをしている気持ちになります

心が豊かな人の中で育った子は

 我慢強くなります

励ましを受けて育った子は

 自信をもちます

ほめられる中で育った子は

 いつも感謝することを知ります

公明正大な中で育った子は

 正義心をもちます

思いやりの中で育った子は

 信仰心をもちます

人に認めてもらえる中で育った子は

 自分を大切にします

他者の愛の中で育った子は

 世界に愛を見つけます

 

何を受けたかがその人の在り方を決めていくとするなら、何を受けてきたかを問わざるを得ないでしょう。ところが、私たちは、往々にして良いものよりも、悪いものを引き継いでしまいます。また、世界の現実を見るなら、悪に対して悪意をもって対抗するうちに、悪が乗り移り、互いに悪が倍増していく世界に生きている、と実感いたします。身近な関係においても、世界のレベルでも、冒頭で引用したみ言葉に生きる存在が、いかに必要かを強く思わされます。

ペテロの第一の手紙では、何より、「祝福を受け継ぐために召された」とあります。信仰の継承である前に、まず祝福を受け継ぐことが大切なのです。受けて初めて継ぐことが出来るのです。

「祝福を受け継ぐために召された」とあります。それが私たちの存在なのだというのです。私たちが立派であったり、能力があるから召されたのではありません。むしろ、敵意の中で育ったり、批判されたり、弱かったり、強すぎたりといった、取るに足らない存在であるにも関わらず、「祝福を受け継ぐために」神が選んでくださったのです。このことが驚きの事実です。

ですから、まず、私たちは十分すぎるほどの祝福をいただくことは、主の御心です。それは、単に私たちの為だけではないからです。受け継いで、私たちの周りにおられる方を祝福するためなのです。
これは、アブラハムへの神の約束とまさにつながることです。創世記十二章二~三節にこうあります。

 

わたしはあなたを大いなる国民とし、

あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。

あなたは祝福の基となるであろう。

あなたを祝福する者をわたしは祝福し、

あなたをのろう者をわたしはのろう。

地のすべてのやからは、

あなたによって祝福される。

 

この約束を真に信じるなら、やられてもやり返す必要はありません。どんなに悪く言われても、神からいただく祝福で心があふれているなら、祝福で返すことが出来ることでしょう。奇跡はそのようなことから始まります。その連鎖は、私たちや周りの社会をも変えていくにちがいありません。     

  

「祝福となる存在」 

牧師 西岡義行

 創世記の前半は、壮大な天地創造、アダム(人類)の堕落、地球大の洪水、そしてバベルの塔における言葉の乱れという、四つの出来事が書かれています。後半は四人の人物、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの生涯が描かれています。イスラエルの原点、そして私たちの信仰の原点は、彼らの生涯を見る中で描き出されていきます。

◇挫折の中で

壮大な四つの出来事とは対照的に、神が選ばれたのは、偉大なるメソポタミア文明にうずもれてもおかしくない、テラ家でした。その家族に受け止めがたい悲劇がおきたのです。三男、ハランが亡くなったのです。「父が生きている間に死んだ」とあり、新改訳では父親の「存命中」と訳しておりますが、調べてみると、「父の面前で」とも訳せる言葉が使われています。自分の目の前でわが子が命を失うという、慰めようのない現実があったのです。

それに加え、他の二人の息子たちにも難題がありました。次男は、なんと弟の娘と結婚しているのです。今では考えられないこうした事態が何故起きたのかは、不明な面がおおいのですが、血の濃さの故の不吉な予感がします。長男夫婦にも深刻な悩みがありました。それは、なかなか子どもが授からなかったことでした。

これら三人の父テラは、月の神を祭るウルの町の偶像を作る職人であったと言われます(ヨシュア二四・二)。彼はその神にどれほど祈ったことでしょうか。しかし、その願い空しく、ある大きな決断をします。その町での生活に見切りをつけ、新たな人生に向けて旅立つのです。しかも、その目的地は「カナン」でした。約束の国カナンとは、よく言われていますが、創世記を注意深くみると、カナンヘ向かう旅は、アブラムではなく、父テラが始めたのです。ところが、年齢がいっていたからでしょうか、彼らは途中のハラン(カラン)で住み着いてしまったのです。

目標や夢をもって生きても、達成できず、結局挫折してしまいその父も他界してしまいます。父親の夢に振りまわされたアブラムは、「始めから夢など持たなければ良いのに」とすら思ってもおかしくありません。前にも進めず、後ろにも戻れず、自分たち夫婦にも希望が見当たらない厳しい現実の只中で、親でもない、自分の内側からでもない、まったく神からのみ声(召命)がかかったのでした。

 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは  祝福の基となるであろう。(創世記十二章二節) 

◇新たな旅の出発 

アブラムは神から呼び出され、主が示す地に旅立ったのです。父親が向っていたところに行ったというのではなく、自分で決断したということでもありません。み声をかけて下さった方のことばを信じて立ち上がったのです。彼に何か素晴らしいところがあったからでも、夫婦に希望があったからでもなく、むしろ何もない現実にいたにも関わらず、主のみ声を信じての旅立ちだったのです。

彼らが選び出されたのは、何のためだったのでしょうか。それは3節に明示されています。「祝福の基となる」ためでした。原語で見ると、「基」という語はありません。直訳すると「あなたは、祝福となる」ということになります。この旅は、彼らがどこへ行っても、その存在そのものが、祝福となるということなのです。それが、アブラムを選んで旅立たせる目的だったのです。神は祝福をもたらすために私たちを選ばれたのです。

私たちも何のとりえもない者なのに、主の恵みに与り、私たちの存在を器としてその恵みを受け継ぐようにとこの地に派遣して下さったのです。

さて、最後に一二章二節に目を向けたいと思います。そこには、神の約束が述べられています。「あなたを呪うものをわたしは呪い」とあります。そのようなことを言われた事があるでしょうか。見知らぬ地へ旅立つアブラムにとって、どのように響いたでしょうか。実際に旅となれば、支えてくれるものもあれば、逆にその土地を守るために攻撃してくる部族もあることは、容易に予測されたことと思います。しかし、仮に自分たちに攻撃を仕掛け、呪う者が現れたとしても、この言葉は彼らを思いとどまらせるだけの力があったに違いありません。

「そうだ、私たちが選ばれた目的は、祝福となることなのだ。私たちを呪う者に対しては、私たちで呪いかえしてはならないのだ」と。新約聖書には「復讐は私のすることである」(ローマ一二章一九節)とあります。どんなに呪われても、呪い返す必要がないのです。神が義をもって裁かれるからです。この旅人は、世の常識を覆す人たちでした。どんな嫌がらせを受けても、祝福をもって返す存在。どこへ行ってもそこが、祝福となる存在。それが、私たちなのです。神の正義のゆえにそう生きることができるのです。小さなこの家族を通して、神は神に背を向けて歩む人々に何とか祝福を注ぎたいからなのです。 

もし自分が選ばれて救われたことだけで良しとするなら、それは、大変残念なことです。取るに足りない私たちだからこそ、祝福をもたらす存在として神が選ばれたのです。アブラハムの神は、私たちを祝福し、そして私たちがどこに行ってもその存在を通じて祝福をもたらそうと、今も熱心に働いておられるのです。神に背を向けている人に働きかけるために選ばれた私たちの存在は、神にとって、かけがえのないものなのです。



聖書に見る「お花見」
    

牧師  西岡義行 

春は、何かが始まろうとする時です。春の風に誘われて外に出てみると、あちらこちらに花やつぼみが、それぞれのタイミングで、顔を出しています。花だけではなく、鳥も虫も、雑草までも、暖かさに誘われて、私たちの目の前に姿を現わします。「春眠、暁を覚えず」と人は言います。しかし、彼らは、確実に時のしるしを伝えてくれます。眠る私たちを、呼び覚まそうとしているかのようです。 

◇桜渋滞

お花見の場所を探しながらハンドルを握り、桜が咲き乱れるところに差し掛かると、思わずアクセルを緩めてしまいました。うれしいことに、前の車も、スピードが落ち、桜渋滞となってしまいました。川沿いの見事な桜、古民家のそばにたたずむ一本の桜、庭の斜面を彩る芝桜、運転手には過酷なほどに、美しい世界が広がっています。

しばらく進むと、見事な枝垂桜が目に飛び込んできました。思わず、車を停めて歩きました。枝垂桜のそばまで歩いていくと、見上げても桜、目の前にも、足元にも桜が迫ってきます。柵があって入れませんが、枝垂桜の中に入れば、花に包まれるのだろう、と想像しながら、風に揺れる花のそばにたたずんでいました。何かが始まろうとするこの春に、主が備えてくださった、特別な時間でした。 

◇お花見

教会の有志で、お花見を計画しました。ある方が見事なお花見コースを企画して下さり、数名が桜を満喫しました。参加者が思わず、「今までで最高のお花見でした」と言うほどの至福の時を持ちました。

とはいえ、その数日前と翌日は、雨と風とで、お花見どころではありませんでした。日取りが決まったその日から当日まで、天気予報とにらめっこだったのです。この「ハラハラドキドキ」も、「お花見」の中に入っているのでしょうか。計画を変更したり、延期したり、断行して、春嵐の中、砂交じりのお弁当を食べて、後悔したこともありました。特に今年は、妻が退院して間もない時期で、思いのほか退院後の回復が遅く心配が募ってきました。天気はどうなるのだろう、誘った人が全員参加したら、自動車二台となり、誰が運転するのだろう、と様々な不安がよぎりました。

考えてみると、春の天候は変わりやすく、すぐ散ってしまう桜とタイミングを合わせることは、至難の業です。「思った通りに行かない」ということも、「お花見」に含まれているのかもしれません。だからこそ、今回は、予測の甘さと人の優しさを感じる、忘れることのできない「お花見」となりました。 

◇聖書の中の「お花見」

自然豊かな田舎で育った主イエスは、思いわずらう私たちに、「野の花を見なさい」(マタイ六・二五以下)と述べられました。「命のことで・・・からだのことで思いわずらうな」と言われているのは、私たちが命のこと、からだのことで、思いわずらっているからなのでしょう。「思い通りにならない」ということを痛いほど味わうのは、からだのこと、いのちのことだからなのでしょう。
「思いわずらう」という言葉は、もともとはケアーすること、心にかけること、という意味のことばから来ています。「心配り」自体は大切なことです。問題は、多くのことに心を配り過ぎて、自分の分を越えてしまうことなのです。「あれも、これも」自分でケアーしようとするときに、思いわずらう状態に陥るのです。日本語の「心配」も、まさにそのような状態をさしているでしょう。

聖書に、もう一度目を向けましょう。

野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(マタイ6:28~29)

 

「野の花」を見るとき、どうしてこれほどにきれいに着飾ることができているのか、考えてみる時を持ちませんか。聖書でのお花見は、「思いわずらい」の中でむしろするのだと言うことが分かります。

家庭集会で、この話をしましたら、出席者の一人が思わず、次のように言われました。

「お花見は、気持ちのいい日、楽しい時のことかと思っていましたが、悩みの日にこそ、むしろ必要なことなのですね」。

あれもこれも心配になり、「いのちのこと」「からだのこと」で思い煩うその只中で、お花を見る。お花の存在を包む、目に見えない大きな何かに、目を向けることが出来たら、と思うのです。

春、この季節は、新しいことが始まろうとする節目の時です。人生でもそんな節目があります。そうした時には、あのこと、このことに心を配ることは、ごく自然なことです。しかし、知らないうちに、分を越えてしまい、「思いわずらい」の中で、自分を見失うこともあるかもしれません。そして、いのちを与え、からだを与えた方を忘れてしまうのです。そんな時こそ、聖書の「お花見」を思い起こしてみませんか。 


6月29日 特別礼拝説教
 「魂の疲れからの癒し」 ヨハネの福音書 4章4節~14節

人生は、出会いで決まると言われます。「あの人と出会わなければ、今の私はありません、」「あの出会いが悲劇の始りです」などと……。出会いは、自分で計画していないところで起きる実に不思議なものです。考えてみれば、両親が出会わなければ、自分という存在はありません。出会いは、人生を左右するだけではなく、人間存在の根本にもかかわる大切なことなのでしょう。 

◇「今日も誰とも会いませんように」

聖書には、出会いによって変えられた方が登場します。誰にも言えないつらい過去を背負って生きてきた一人の女性です。五度も結婚に失敗し、今はある男性と同棲生活をおくっていた彼女は、村のはずれの古井戸に、誰も来ない真昼の12時頃に水を汲みに行きます。

「今日も誰とも会いませんように」。これは、人目を避けて生きざるを得ないこの女性のせめてもの祈りでした。砂漠の日照りは、容赦なく彼女を疲労と渇きに追い込んでいきます。ところが、誰もいないはずの古井戸で、不思議な出会いが待っていたのです。炎天下のもと、「この水を飲む者」がもう一人いたのです。イエス・キリストでした。この過酷な現場は、彼女の人生を変える出会いの場であったのです。

井戸で出会ったその方は、不思議なことを語ります。「この水を飲む者は誰でもまた渇くであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:13~14)。 

◇ また渇く人生

イエスキリストは「また渇く」と言われましたが、それは、彼女の人生そのものでした。幸せを願ったからこそ結婚したはずでした。ところが、その結婚に何度も何度も裏切られたのです。「天国を見たかったら良い家庭に行ってみなさい。そこが天国に一番近いのです。地獄を見たかったら、愛し合っていない夫婦を見てごらんなさい。そこが地獄に一番近いのです」と宗教改革者のマルチン・ルターは述べたそうです。彼女は何度も地獄のようなつらい日々を経験したことでしょう。破綻の原因は、夫の不貞かもしれませんし、彼女の不貞かもしれません。ある文化人類学者は、当時の離婚の最大の原因は、不妊であったことから、彼女は結婚相手から何度も捨てられのでは、と推定します。しかし聖書は、離婚の理由に一切触れていません。むしろ、泣き明かした夜がどれほどあったかが大切なのでしょう。そして、そのサマリヤの村で最も悲しみを背負っていた彼女にキリストが会われたという事実が大切なのです。

この女性は、魂の渇きを癒す水を求め始めました。ところが、イエスは、「あなたの夫を呼びに行ってここに連れてきなさい」(16節)と言われます。彼女の魂に変化が訪れるためには、最も触れてほしくなかった部分に光を当てられたのです。目を背けたくなる人間の現実から逃げるのではなく、そこに触れていただくこと。それは、実に大切なことです。主はそれをしてくださるのです。教会は、主イエスがなさろうとすることがなされるために存在します。主があの女性にしてくださったように、教会において、共に祈るとき、そこにおられる主が、私たちの魂の深いところにある辛いことに触れて下さり、そこを泉わくところとしてくださるのです。 

◇ 泉となった奇跡

彼女の内的変化は、神秘のベールに包まれています。しかし、彼女に大切だったことは、少なくとも二つあります。第一に、本当の自分と出会うことです。それは、時には、誰からも触れてほしくないようなつらい過去に触れていただくこともあるでしょう。聖書の言葉は、私たちの本当の姿を映し出す鏡です。その鏡に映しだされた自分と向き合うことは大切です。そしてもう一つは、主と出会うことです。その決定的場面は、礼拝の場所などについての対話がなされた後で訪れます。「あなたと話をしているこのわたしが、それである」(26節)というイエスの自己宣言の言葉を耳にした時です。「あなたがず~と探していたのは、このわたしなのですよ」と。

魂の中で起きた小さな変化は、本人のみならず、まわりをも変えてしまう力があることを聖書は記しています。彼女は、水瓶をそこにおいて、町に行き、人々にイエスのことを伝えはじめました。そうです。彼女は、多くの人に希望を分け与える人に変えられたのです。

彼女は、サマリヤの村人には良く知られた存在でした。一週間もお祝いの時がもたれるような当時の結婚式を五度も経験したからです。彼女のことは、サマリヤの村人の噂に何度上ったことでしょう。だからこそ、身を隠して生きざるを得なかったのです。ところが、その彼女が、目の前に立って、救い主の存在を人々に伝えているのです。人々はぞくぞくとイエスの方に向かっていきました(4:30)。まさに、この女性が泉となったのです。 

キリストと出会うとは、どのようなことなのでしょうか。それは、この女性がそうであったように、イエスの語りかけを耳にすることです。イエスは、今日も聖書の言葉を通じて語ってくださいます。それは不思議な経験です。神の前で自分の真実に向き合う時、私たちの魂を変えてしまうほどの語りかけを耳にするのです。それは、驚くべき経験です。始りは実に小さなことかもしれません。不信仰が同居したとしても、その言葉に命がありますから、私たちを変えてしまう力があるのです。ここに希望があります。どんなに絶望の淵にあったとしても、主は、この希望に招いて下さっているのです。 

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」 (マタイ11:28)



「イエスを映しだす教会」  

牧師 西岡義行
                  
現在礼拝では、へブル書から講解説教を続けていますが、そこで出てくるキリストは最も大いなる大祭司として描かれています。同様な視点でイエスを描いているのは、ヨハネ福音書一七章です。そこには、大祭司イエスの祈りがあます。自ら十字架にかかる前の祈りなのです。その祈りには「・・・ように」が何度も繰り返されています。主に習うものとしての私たちの姿が描き出されています。その祈りにある三つの「・・・ように」に目を向けてみましょう。

Ⅰ 「世のものでないように」

主が世のものでないように、私たちも世に属する者ではないと語られます。「わたしが世のものでないように、彼らも・・・」の祈りは、「世に居場所を確保し、世と妥協してしまってはならない」ということを伝えています。私たちは聖別され、取り分けられた存在なのです。しかし、だからと言って、世離れすることではありません。「世から取り去るのではなく」と祈られているとおりです。イエスの時代にも、当時の世と妥協した人たちがいました。ローマの生き方や考え方が入り込んでしまったサドカイ人たちです。逆にエッセネ派やクムラン教団がしたように、世からの隔絶した生活を送った者もいた。しかし、主は世にいながらにして世に染まらず、逆に、世を変え、祝福をもたらす存在として 私たちが選ばれ、遣わされているのだと述べたのです。

 ここで、一四と一六節で繰り返されている「世のものでない」を原語で調べると、「世に所属しているのではない」(エク・トゥー・コスムー)と訳すこともできます。さらに詳しく調べてみると、このエクは、所属を意味することよりも前に、ある存在の素材、起源、その出所を意味することばです。「世のものでない」とは、キリスト者の出所が、「世からのではない」と言う意味です。すなわち、キリスト者の起源、出所は、神によるのだという意味です。神の恵みによって生まれ、造られた存在であって、決して自分の力、血縁、努力などによって生まれたのではないと言うことです。人間そのものも、自分の努力で生まれた人はいませんが、キリスト者として新しい命に生まれたのも、まったく、 神によるのです(ヨハネ一・一二)。

Ⅱ 「父がわたしをつかわされたように」

 父がわたしを世に遣わした「ように」弟子たちを世に遣わすことが、第二の祈りです。御子を遣わされたのは、世に神ご自身を現わすことでした。「神を見たものはひとりもいない。ただ、神のふところにいるひとり子なる神だけが神を表わした」(一・一八)とあるように、イエスを見ることは神を見ることに他ならなりません。弟子たちの存在も、神を現わすこととして選ばれているのです。だからこそ、「主のように」なる必要があります。

 「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(ヨハネ二〇・二一)。これは、学院を卒業し最初に主が下さったことばでもありました。主は、どのように遣わされたのだろうか。それは、最も弱い存在として、さらにそこは馬小屋でした。公生涯では、病のもの、絶望の淵におかれていたもの、社会が排除したもの、金持ちであり、孤独な取税人などに向かわれました。主はそうした一人ひとりを大切にされたのです。主が遣わされたように私たちがつかわされたとは、どういうことかをしっかりと学ぶようにと伝えられた。そして、今までの教会の働きでいよいよこのことの大切さを知らされ参りました。

Ⅲ わたしたちが一つであるように

 最後の「~ように」は、主イエスと父なる神が一つであるように、私たち教会のものが一つであるようにと祈られたことです。それは、弟子のように主の教会に献身的に仕える中心的な方々と、日々の生活で精一杯で、礼拝に来ることが精一杯だったり、奉仕したくても余裕がなかったり、信仰的に、これから成長する方々を含め、すべての教会関係者が一つとなることなのです。それは、「世が信じるようになるため」(一七・二一)です。不思議ですが、世は、私たちが伝えることより、私たちの存在の在り方によって、キリストを知るか誤解するかが決まるというのです。何をどう伝えるか、である前に、私たちが主にあって一つとなるかどうか、それが問われているのです。この世は、主イエスを知ろうともしないし、関心を向けもしません。しかし、キリストの体なる教会には、不思議と関心を持つものです。実際に見えるからです。私たちキリスト者は意外にも見られているのです。聖書は、私たちが一つとなることが、主を伝える上で実に大切なことなのだというのです。一つになる時に、イエスを映しだすこととなるのだと聖書は伝えます。だからこそ、祈り合い、理解し合い、一つになることからはじめさせていただきたいものです。

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「荒野に道、さばくに川」  (イザヤ43:19

 新しい何かが始まろうとするとき、ある人は、計画やそれに沿った具体的青写真と努力への備えを大事にするでしょう。あるいは計算できない直観的な予測や、感覚、あるいは人々の結束こそ大事だと思う人もいるでしょう。おそらくそれらのものはみだどれも大切なものでしょう。しかし、忘れてはいけないことがあります。それは、目に見えない方の呼びかけ、ヴィジョンに心を向けるということです。主の御思い、主の約束を聖書の言葉からし っかり受け取り、そこから励まされ、押し出され、期待をもって歩み始めること。それは、キリスト者においても教会においても実に重要なことです。
 新しい節目で私自身に、強く迫ってきた聖書の言葉がイザヤ書43章19節でした。

  見よ、わたしは新しい事をなす。
  やがてそれは起る。
  あなたがたはそれを知らないのか。
  わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。

◇ 新しいこと
 まず、主は新しいことをなすと約束されました。「新しい」とは、何でしょうか。私たちの周りにある新しさ、新築、新車、新年、新生児、新入生、新入社員、新婚……は、どれも一時的な新しさです。イザヤがここで言う新しさは、まったく 今までには無い、新しいことです。この聖句の前には、出エジプトの出来事を思い起させる表現で、「主がなさる大いなる業」として新しいことが描かれています。しかし、一八節では「さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない」とあります。まったく新たなこと、人間の予想や想像を超えたみ業がなされるのだと伝えるのです。それはいったい何なのでしょうか。それが、一九節後半にある、「荒野に道を設け、さばくに川をながれさせる」ことなのです。海に道を造られた方は、荒野に道を、さばくに川を造られるのです。

◇ 砂漠化した現代の荒野性
 イスラエル聖地旅行で、バスにのって荒野を走った時、珍しく雨が降ってきました。景色が見え ないことに、残念な気持ちを抱き始めたときでした。トラックを止め、わざわざ外に出て雨にあたっている男性がいたのです。「あんなことをしたら雨に濡れてしまうのに」。すると、ツアーガイドが、「みなさん、あの男性が何をしているかわかりますか?……。雨を歓迎しているんですよ」。長い間待ちに待った雨がついに降ってきたのです。
 それから、ホテルに着くと、何とロビーの一部に水があふれているのです。しかも、ホテルの従業員は、対応もせず、喜んでいるのです。部屋に入り、風呂の蛇口をひねると、そこには水が出てきません。「何というホテルだ。建物も従業員も、どうかしている!。学院の格安ツアーでは仕方ないか…」。しばらく水は出るようになったが、夜のミーティングで、こ う解説された。「みなさん、水が出ないことに驚いてはいけません。砂漠の真ん中にいるのですから。雨漏りに驚いてもいけません。むしろ、建物も従業員も雨を大歓迎しているのですよ。来た道で、何も学んでいないようですね・・・。」
 砂漠の厳しさで雨のありがたさを存在全体で喜ぶ。その姿に、衝撃をうけました。同時に、それを理解できない自らの姿にも、ショックでした。雨の多い世界で水のありがたさを見失っていたのです。この問題は、目に見えない恵みの世界についても言えることです。沢山の恵みに囲まれ、祈られる中で歩み、今では教会で生活をしています。しかし、もしかすると、神の恵みに慣れてしまい、実は、本当は霊的にも、恐ろしいほど砂漠化した世界に今生きていることを忘 れてしまっているのではないかと。深刻な現実におかれているにも関わらず、水の大切さを忘れていないでしょうか。もしそうなら、脱水症状を引き起こし、霊的頭痛にさいなまれ、生命の危機に陥りかねないでしょう。しかも、知らないうちにそうした状況が進行していくのです。

◇ 砂漠に川
 今こそ、命の水が必要な時はないのかもしれません。もう一度、神から離れた世界の砂漠化の実態、そしてそこで生きることの危険に目を向けたいものです。そこに生きる厳しい現実を理解し、苦悩する方々から目を背けてはいけないのです。共に生きることではないでしょうか。
 同時に、教会の中に、自分の中に、知らず知らずの内に忍び込む砂漠性にも、注意する必要があるでしょう。砂 漠の中で、どう水を得るか、それは、実は簡単なことではありません。教会はこの砂漠におけるオアシスでありたいと思います。また、主ご自身が、泉です。主から生ける水をいただくなら、そこから泉がわくとすら約束されたのです。
 「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、
 わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」
  (ヨハネ4:13~14)